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namijin (PUNK ROCK DJ/HEADROCK organizer) 1963年3月30日東京都世田谷区生まれ / AB型 (パンクロックとスノーボードとシュノーケリングとボディボードと猫が大好き) ★ PUNK ROCK DJ ★ パンクバンド NUMBER.42 のベース&ボーカル ★ ヘッドロックナイトのイベントオーガナイザー ★ ヘッドロックレコーズのレーベルプロデューサー ★ TORNADOのサポートベーシスト ★ 番組パーソナリティー 1978(PUNK覚醒) SEX PISTOLS, THE CLASH, THE DAMNED, THE JAM, THE STRANGLERS... ロンドンパンクムーブメントが、ロック少年namijinの脳天直撃、PUNK ROCKに覚醒! 特にジャンジャックバーネル(ザ・ストラングラーズ)の斬新かつ攻撃的なベースプレイに 人生観が変わるほどの衝撃を受け、速攻でベース購入。 4年間続けたクラブ活動をきっぱり辞め、ベースに打ち込みはじめる。 (余談だがジャンジャックバーネルの影響で三島由紀夫の著書を買いこむが、 あまりにも難解で、敢えなく挫折する) 1979(日本語パンクとの出会い) 友人に「アナーキーっていう日本語のパンクバンドがいるんだよ。 日本語でクラッシュのカバーとかやってるんだぜ」と誘われ、ライブに通いまくる。 翻訳の必要もなく、リアリティのあるメッセージに溢れた日本語歌詞にはまりまくり、 「アナーキーのメンバーが国鉄の制服ならば、俺達は特攻服だ。色も似てるし」と、 訳のわからない理由でライブに特攻服姿で通い始め、アナーキーのライブ会場で 一世風靡した特攻服ムーブメント(?)のパイオニアとなり、ライブハウスで正統派皮ジャン系のパンクス達と、 もめたり仲良くなったりする。 1981(BAND結成) ライブに通っているうちに仲良くなったアナーキーの某メンバーの「おまえがバンド組んだら、 俺達の前座で使ってやるよ」という言葉を信じて、高校卒業後、専門学校で知り合った仲間とロックバンド 「LAYDOWN」結成。 1982(新宿ロフトで初ステージ) 「LAYDOWN」、約束通りアナーキーの前座として新宿ロフトで初ステージを踏む。 開始2曲目で客がステージ上になだれ込み、いきなりライブ中断。 しかし自分自身がアナーキーのファンとして、しばしそういった行動に出ていたので 臆することなくライブを続行。 1983(BAND活動) 「LAYDOWN」解散。「THE PRIVATES」の母体となるパンクバンド「THE SECT」に加入。 目黒鹿鳴館や新宿ロフトなどを拠点に数回のライブをこなすが、あまりにもローテクなPUNK野郎だったため、 当時バンドが向かいつつあった 「PUNKからBACK TO ROOTSへ」という流れについていけず「THE SECT」脱退。 1986(マネジャーへ転身) 時にはボーカリスト、時にはベーシストとしてバンド活動を続けるがなんともパッとせず、 さてどうしたものかと思っていたところ、ちょうど「THE PRIVATES」がメジャーから 声がかかり始めたタイミングに、メンバーからマネジャー就任を要請され 「じゃあ試しにやってみるか」と軽いノリで引き受け、音楽業界生活への一歩を踏み出す。 1987(メジャーへ) 「THE PRIVATES」メジャーデビュー。 "闘うマネジャー" 生活が本格的にスタート。 メンバーに誘われるがままに、なりゆきで入った音楽業界だがマネジメント活動を通じ、 数度に渡る海外レコーディングなど、様々な出会いや経験を積み重ねていくうちに 「大好きな音楽に携われて、その上、生活が成り立ってしまうとは、なんと贅沢で幸せな事か。 ポジティブな気持ちを忘れずに、一層頑張らねば!」と思いを新たにする。 1993(A&Rへ転身) 約6年間に渡る「THE PRIVATES」マネジャー生活にピリオドを打ち、 新たなる出会いを求めてメーカーディレクターへの転身をはかり、 日本フォノグラム(現在のUNIVERSAL MUSIC)入社。"炎のA&R" として筋肉少女帯、 BUCK-TICK、ROUAGE、中山加奈子、DIAMANTES etc...を担当。 1998(ひっそりとワーナーに電撃移籍) 約6年間在籍した MERCURY M.E. を退社、GREEN DAYでお馴染みの WARNER MUSIC JAPAN にひっそりと電撃移籍。 1999 ワーナーで 華原朋美、鈴木祥子、SPANOVA、高木完のA&Rを担当。 2000〜2001(ヘッドロックナイト・スタート) ワーナーのメジャーレーベルでのA&Rと並行して、ワーナー社内の新人育成レーベルにて FOOT STAMP、THE PAN、VooDoo Hawaiians、ゼンマイ虫 のA&Rを担当。 2000年・春 10数年来の友人でもある"新宿の暴れん坊"小林氏(ロフトプロジェクト社長)と ジャパニーズ・パンクシーンに対する想いなどを好き勝手に、 熱く語り合っているうちに「ナミジンの思うようなメンツでシリーズライブやってみなよ。 きっと面白いよ!シェルターとロフトでやればいいじゃん」との熱い提案を受け、 正直、本業でもなければ経験もないイベントプロデュースに多少ビビりつつも、しかしせっかくの前向きな提案なので、 PMA(肯定的精神姿勢)で取り組む決意をする。レーベルの社員ディレクターとしての立場上、 念のために相談した当時の上司からも「いいじゃん、面白そうだから好きにやんなよ!」と あっさり後押しされ、様々な好条件に恵まれつつ、 2000年11月、シェルターにて記念すべきヘッドロックナイト第一回目を行う。 2002(WARPED TOUR に夢の参戦!) 春、NICOTINE がワーナーミュージック・ジャパンに移籍し、 担当A&Rとして夏、NICOTINEと共にアメリカで行われている世界最大のパンクロックイベント "VANS WARPED TOUR 2002" に夢の参戦を果たし、大いに刺激を受けまくる。 2003(PUNK ROCK DJ デビュー!/クラブチッタ初進出/ヘッドロック、レーベル化!) 1月、ヘッドロックナイト10回目を記念してクラブチッタに初進出、動員約1000人の大盛況。 調子に乗ってこの日、パンクロックDJデビューを果たす。 この日改めて、ヘッドロックのメインテーマ「ENJOY PUNK ROCK」の持つ意味の素晴らしさを再認識。 そしていよいよ、念願だったヘッドロックのレーベル化に向けて始動。 7月、HEADROCK records 旗揚げ第一弾で "夢のパンクロック・コンピレーション" 「パンクロック・バトルロイヤル」とレーベル第一弾バンド「大和」を同時リリース。 更に8月には二度目のクラブチッタ進出を果たし、1000人を超える動員を記録。 11月には下北沢SHELTERにて初の3デイズを開催。激動の一年を締めくくる。 2004(初のラジオパーソナリティー/18年間の会社員生活を辞め、フリーに) 3月、3年振りに新宿ロフトでヘッドロックナイト開催。超満員ソールドアウトとなり、 3年前の雪辱を果たす。ヘッドロックのコンピアルバム第二弾「パンクロック・バトルロイヤル2」 を7月にリリース。沖縄初のパンクロック専門番組「PUNK ROCK RADIO」(FM沖縄) で 人生初のラジオパーソナリティーに挑戦。2004年7月〜2005年12月にかけて放送。 8月には3度目となるクラブチッタ開催。8月末日、約6年間正社員として勤務したワーナーを退社。 11月には沖縄で初のヘッドロックナイト開催。 年末にはヘッドロック初のDJイベントを恵比寿ミルクにて開催。 大晦日のカウントダウンイベントを富士の裾野の屋外人工スキー場、 スノータウンイエティとコラボ開催。 2005(初の洋楽コンピ実現/クラブチッタ初のSOLD OUT) MXPXのJAPAN TOURでDJを務めるなど、「パンクロックDJ界のパーティー野郎」として、 DJブースに入る機会が飛躍的に増える。6月、初の映像作品「ヘッドロックナイトDVD」リリース。 9月にはヘッドロックのコンピシリーズ第三弾「パンクロック・バトルロイヤル3」と同時発売で、 ヘッドロック初となる洋楽コンピレーション「パンクロック・バトルロイヤル INTERNATIONAL」をリリース。 SUM 41、MXPX、weezer、blink-182、NEW FOUND GLORY、SUBLIMEなどそうそうたるメンツを収録。 10月、5度目のクラブチッタ開催(ヘッドロック初のクラブチッタSOLD OUT)。 11月には二度目の沖縄開催。 2006(バンド結成〜メジャーデビュー/ヘッドロック初のツアー開催/史上初のDJワンマンライブ/ロンナイに初登場) 42才にしてカバーパンクバンド「NUM42」結成。3月よりライブ活動開始。 アルバム「PUNK MASH UP!」でジェネオンより10月CDデビュー。 9月にはヘッドロック初のツアーを名古屋、大阪、川崎、木更津にて行う。 5月と11月にはロンドンナイトにDJとしてゲスト出演。 10月には恵比寿みるくにて、ロックDJ史上初 (のはず) の「DJワンマンライブ」を敢行。 2007(CLUB CITTA'にて二度目のDJワンマンライブ/TORNADOに加入) 8月、NUM42セカンドアルバム「PUNK MASH UP 2」リリース。 10月27日、ヘッドロック通算50回を記念して、聖地CLUB CITTA'にて人生2度目の DJワンマンライブを敢行。 12月、サポートベーシストとしてTORNADOに加入。 2008(NUM42活動終了→NUMBER.42に改名/猫の写真集&DVD発売) 3月、「パンクロック・バトルロイヤル5」と同時発売で、NUM42のオール日本語カバーアルバム「PUNK MASH UP JAPAN」をリリース。 PANTAのロック史上に残る名曲「マーラーズ・パーラー」ではPANTA本人をゲストボーカルに迎えて話題となる。 NUM42は3枚のアルバムをリリースしたのち、年内いっぱいでMASHU-UPカバーパンクバンドとしての活動を終え、 2009年よりバンド名を「NUMBER.42」に改名、オリジナルバンドへの道を歩む決意をする。 また、自身のブログ「並人日記〜たまに猫日記〜」 で紹介している5匹の猫たちが話題となり、DVD付き写真集「ゲンキのサバトラ猫日記」を12/25に発売。 この作品では自らスチール&動画撮影を手掛け、カメラマンデビューを果たす。 2009(NUM42活動開始) 1/31新宿LOFTにてNUMBER.42、活動開始。 |